日置市伊集院町に工房を構え、夫の田中紀行さんと共に陶芸家として活動する田中敬子さん。蒼い器を作り続けて30年になります。
実はお二人に初めて会ったのは25年以上前のこと。東京でサラリーマンとして働いていた紀行さんがUターン。東京出身の敬子さんと結婚して半農半芸の暮らしを始めたばかりの頃、取材で工房を訪ねたのがきっかけでした。
久しぶりに工房を訪ねてみると、当時土間だった場所は二人の作品が並ぶおしゃれな展示室に大変身。
「蒼い器」という共通点はそのままに、それぞれに作風の違う器が並んでいます。
当時、取材した時の主人公は紀行さん。でも今回は東京出身の敬子さんがどんな思いで鹿児島暮らしを決意し、鹿児島での生活を続けてこられたのか…。そのあたりを聞きたくて取材をお願いしました。
「実は彼は初婚で、私は再婚なの。32歳で一度結婚して10年後に離婚したんだけど、そんな頃、同じ美術の先生に絵を習っていたことが縁で知り合ったの」と語り始めた敬子さん。
ところが出会った当初、再婚する気など全くなかったんだそう。「信州あたりで一人で絵を描いていきたいなあと思っていたのに、なぜか美術の先生が余計なことをして二人をくっつけようとしたのよね」
そんな話を聞いたら、「乗り気ではなかったのに、どうして?」と気になります。
「私が生きてきた東京の環境と彼が生きてきた田舎の環境があまりに違うもんだから、好奇心が湧いたっていうのかな。しかも、彼が私に『僕を幸せにしてくれ』って言ったの」
すると、それまで物静かに頷いていた紀行さんが「だって『僕があなたを幸せにします』なんて、無責任なことは言えないじゃないですか」と一言。そして「あの時は『僕を幸せにしてくれ』じゃなくて『僕は幸せになりたい』と言った気がするんだけどなあぁ…」と照れ笑い。
でも「僕を幸せにしてほしい」の一言で、それまで再婚に踏み切れずにいた敬子さんの気持ちが固まったというんですから、不思議です。
「芸術家って社交的でおしゃべり好きな人が多いんだけど、彼は飲み会の時も輪に入らず、静かに人の話を聞いてるの。そんな彼を見ていたら、私が幸せにしてあげてもいいかなって思っちゃったのよね」
44歳から鹿児島で陶芸の道へ
こうして敬子さんは44歳で再婚。6歳年下の紀行さんとの暮らしが始まりました。
元来、江戸っ子気質で行動力のある敬子さんは、すでに陶芸家として歩み始めていた紀行さんの作品を見て「この人にできて私にできないことはない」と陶芸に挑戦。
瞬く間に陶芸を自分のものにしていく敬子さんのバイタリティーに、紀行さんは驚くことばかりだったと言います。
「彼女が一番最初に作ったのが大きな壺。普通小さいものから作るのが普通なんだけど、そんなところが彼女の魅力だし、僕が『土』だとすると彼女は『火』。対照的だったのもよかったんでしょうね」
パワーストーンでも才能を開花
陶芸の傍ら、敬子さんが7年ほど前から取り組んでいるのが、パワーストーンのブレスレットづくりです。
友人に依頼されたことから独学でパワーストーンの極意を修得して制作したところ、大好評。口コミで話題となり、今ではひっきりなしにオーダーが入るほど人気を集めています。
「オーダーした方にぴったり合う石の組み合わせを考えて一つひとつ丁寧に作っていたら、不思議と世界が開けてきたの」と話す敬子さんは、現在75歳。鹿児島暮らしを始めて30年が過ぎました。
そんな敬子さんに「再婚して鹿児島で暮らす道を選んで良かったと思います?」と聞いてみました。すると…。
「まだ分からない。だってまだ結果が出てないもの」と即答。
「きっと死ぬ時に分かると思うの。その時に『これで良かったね、ありがとう』と思えれば、この選択が良かったということになるんだろうけど、まだ人生の途中だから…」
その言葉を聞いて、なんとも敬子さんらしい、と思いました。
人生の途中段階で「自分の人生はこれで良かった」と安易に結論づけず、「こうありたい」と思い描く目標に向かって歩み続ける。夫婦二人の関係にしたって「このくらいでいいかな」と妥協することなく、常にいい形を目指して言葉を交わし続けるのも敬子さん流です。
「私たち、子どもも孫もいなくて二人だけでしょ。二人っきりの人生だから、その分、貪欲になるんだと思うの」
土をこね、窯の火で焼き上げる陶芸の世界そのままに、互いに必要不可欠な存在として人生を歩む紀行さんと敬子さん。
工房の横に広がる山には、敬子さんが少しずつ増やしていった紫陽花が、梅雨時期を前につぼみを膨らませていました。
山里ののどかな風景を眺めながら、今日も夫婦二人で時を紡いでいます。